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浦安ってこんな街!

戦時中の浦安ってどうだったのか、【堀江ぽっかぽか】でお話を聞かせていただきました。

今年で戦後74年。戦争当時を知る人は年々少なくなり、テレビや新聞などでも戦争の特集を目にすることは以前より少なくなった気がします。そういえば、当時の浦安ってどんな感じだったのだろう…? このたび、フラワー通りにある【堀江ぽっかぽか】にて、戦争当時の浦安を知る数名の方々にお話を聞くことができました。74年以上前の遠い昔のことですが、風化させないためにも、ここに記しておきたいと思います。

浦安の戦災

戦争当時はもちろん埋め立て前。陸地は当代島・北栄・堀江・猫実・富士見あたりまでで、それより南側はまだ海でした。「今の海楽のところには海水浴場があってね。よく遊びに行きました。一度海に米軍の戦闘機・B29が墜落して、みんなで見に行ったこともあったなぁ」。終戦当時小学校6年生だった方のお話です。「隣の江戸川区の子どもたちはみんな疎開したけど、浦安は田舎だからか、疎開制度がなかった。だから、子どもたちはみんな浦安にいました」。

東京方面への戦闘機の通り道となっていた浦安にも、空襲の被害はありました。「警戒警報が鳴って、次に空襲警報が鳴って。子どもだったから、空襲警報を合図に子ども同士で遊んでたこともあった。電気のカサには黒い布をかぶせて、夜は電気を消さなくちゃならなかった」「うちには8畳くらいの防空壕がありました。警報が鳴るたびにみんなで入って…」「父の意向で、うちではタンスを防空壕に入れていました。死んだら意味がないのに…。人は物置のところの小さい防空壕に入っていました」「大蓮寺(堀江)にも、焼夷弾が直撃した。今の釣り船・吉野屋さんの近く、ガード下のあたりにお風呂屋さんがあってね、そこにも直撃したね」。

郷土博物館や図書館に所蔵されている「浦安町史」に、空襲の記録がありました。

(昭和19年)11月5日午前10時空襲警報発令と同時に、B29一機が本庁上空を東から西に通過し、東京方面に消えた。偵察が目的らしく攻撃はしなかったが、ついにきたるべきものがきた。
(中略)
11月27日、この日は北の風曇りで、小雨模様の日だった。正午過ぎに空襲警報が発令され、B29の編隊が本町上空に飛来し、二回にわたり爆撃した。一回目は六発、二回目は五発の焼夷弾が、すさまじい落下音とともに西部に落とされ、大きな被害を受けた。
被爆地は惨憺たる光景を呈し、あたり一面青色の煙に包まれ火薬の臭いが鼻をつく。一回目は、堀実西部欠真間1691番地の記念湯に直撃弾が命中し、家屋は飛散し、金川はる(52歳)が爆死し、付近の家屋に大損害を与えた。

「浦安町史 上」204ページより

この後も昭和20年2月19日、3月9日(東京大空襲)、4月8日など、浦安の空襲被害の記録が残っています。

初めの中は、南方洋上から来襲する米軍機の動向を告げるラジオの声に、町民は戦々恐々としていたが、前後百数十回に及ぶ東京地方への空襲は、いつしかこれを「お客様」と呼ぶようになり、異状生活の連続から、なれっこになってしまった。

「浦安町史 上」208ページより

当時は浅草に住んでいて、空襲に合った方のお話です。「空襲警報のサイレンが鳴ると、学校でコッペパンをもらって家に帰りました。戦争がひどくなってきて、夜は防空壕に入って寝ていた。小学校2年生に上がる3月、妹が2歳のときに、大きな空襲があって。母親が妹をおぶって、私と兄と4人で逃げました。言問橋の下に逃げたら、憲兵さんが『ここにいたら全滅だから、向島へ逃げなさい』と教えてくれて、4人で向島まで逃げたのだけど、もう、周りは火の海。母親が火をよけられるようにとたくさん着物を私に着せたんだけど、私は熱いから全部脱いじゃった。父は理容店をやっていたので、お店を守るために最後までいたの。女の人に「助けてください」と言われたけど、自分を守らないといけないから、かわいそうだったけど残して逃げたって言ってた。遺体が川沿いにたくさん積まれてたけど、真っ黒こげだから全然怖くもなんともなかった。一度浅草へ帰って3日くらい後、葛西のおじさんが自転車で迎えに来てくれた。それで葛西で暮らすことになりました。でも、あまりにも戦争が怖くて、山形の米沢へ学童疎開したんです」。

当時の子どもたちの生活

「小学校は一クラス40人くらい、男女半々くらいだったかな。悪いことするとバケツ持って立たされたりしていたよ。学校では手旗信号を習いました。あと男子は銃剣術、女子はなぎなた。上半身裸でね、エイ!エイ!とやってました」「学校には、正面向いて左側に二宮金次郎の像、右手には天皇陛下がそこにいると言われていた大きな建物があって、毎朝通るときにはお辞儀をしました。でも金属供出で、銅像やお寺の鐘、うちにあったトイレのところの金具なんかも全部鉄砲の玉になっちゃった」。

「あのころは食べ物がなくて…。お米もないし、すいとんばかり食べていた。あとは、さつまいも。切って、ごはんの中に入れて。学校行くとみんなお弁当を隠して食べるの。白いご飯の人は一人もいなかったね。百姓家の人は白米のおにぎりを食べたりしてたからうらやましくて、母親に『私、お嫁にいくなら百姓家に行きたい』って言ったくらい。お腹が空いてたんだね」「とにかく食べ物がなくて、ひもじかった。学校でウゴパン(ウゴ=刺身のツマにする海藻。それにムギのカス(フスマ)を混ぜたパン)が配られて食べたけど、とてもマズかったね。漁師の家では貝や魚を食べられたから、アサリを鍋いっぱいに茹でて(ふうかし、と呼んだ)ご飯の代わりに食べていました」「当時はフラワー通りに八百屋さんが3件くらいあって。その八百屋に朝早くから並んで、柿の皮を買って食べました。おやつ替わりでね、甘くて美味しかった」「あとはハコベを食べたり、オンバコ(今はあまりない)を食べたり、鶏のエサを食べたりなんてこともあったね」。浦安町史によると、食料の減少が目立ってきたのは昭和15年ごろ、とあります。

初めは七ぶづきだったコメも、17年には五ぶづきになり、18年には二ぶづきになった。そればかりか米の代わりに、オシムギ、コウリャン、トウモロコシ、ダイズなどの雑穀が混入され、そのほか、バレイショ、サツマイモ、うどん粉、でんぷん、ホシイモ、はては豆粕までもコメの代用として配給されるようになり、ほとんどの家庭では雑炊や、あまり味のついていないすいとんなどを、主食として食べるようになった。
また菓子類などもないので、子供達は駄菓子屋で、カキの皮などを買って食べる有様だった。
(中略)
昭和19年8月からは、砂糖はまったく配給されなくなった。副食品は行列買いから次第に隣組を通じ、各家庭に配給されるようになり、しまいにはダイコンが半分と、ネギが二本とかいうふうに、僅かばかりの野菜や魚が配給されるようになった。

「浦安町史 上」194~195ページより

「終戦後、米兵がジープに乗って浦安へ巡回にやってきたことがあってね。ある時、子どもたちにチョコレートやチューインガムをくれたんです。それからジープが来ると、ハローハローって言いながらみんなが寄っていくんだ。私もチューインガムもらったけど、食べ方知らなくて、噛んでて飲んじゃったの、風船ガムだったのにね(笑)。もらったチョコレートも美味しかった。その時のことを覚えているからね、いまだにチョコレートは美味しいですよ」。


「浦安にはガラシャ(エビガニ=アメリカザリガニのこと!)がいた。 赤くてハサミのでっかいのがいいやつなんだよね。美味しかったよね、味はロブスターみたいなもんだよ(笑)。茹でて、カニと同じようにして食べてた。境川や江戸川でもウナギが獲れたね。ウナギの小さいものを、浦安ではニュウメンと呼んでいた。エビの小さいのをハンベと呼んでいて、それも天ぷらにしたりしてよく食べてた」「今より水がとってもきれいだったからね、水底の石が見えるくらい。子どもたちはみんな、船があっても躊躇せずに境川に飛び込んでた。みんな境川でお米を研いでいました。冬は氷が張っちゃうくらい寒かったね」「虫も多かったね。秋になると赤トンボが校舎に止まって、真っ赤になるくらいだった! オニヤンマもいたね」。

記憶を記録して、次世代へ残していく

語られたのは、74年という歳月が流れた今の浦安からは想像できない情景ばかり。【堀江ぽっかぽか】の皆さん、貴重なお話を聞かせてくださって本当にありがとうございました。しっかりと胸に刻んで、これから生きていきたいと思います…! ちなみに【堀江ぽっかぽか】は、浦安市社会福祉協議会が運営する、誰でも入れる地域の交流の場。高齢の方でなくても、気軽に立ち寄れる場所です。【堀江ぽっかぽか】の詳細は、以前取材させていただいた記事をご覧ください。

誰でも入れる、地域の“交流”と“見守り”の場。フラワー通りにある【堀江ぽっかぽか】を取材してきました!

戦争当時の浦安を知るには、引用させていただいた「浦安町史 上」のほか、「私の戦争体験 ~浦安の語り部たち~」というシリーズもあります(浦安以外の体験談も入っています)。

どちらも郷土博物館にて閲覧させていただきました。また、郷土博物館のデータベースにはかなりの数の資料があるのですが、昭和10年代ごろの戦争当時の写真も入っています。ご興味のある方は、ぜひのぞいてみてください。

これからもずっと、戦争のない平和な日々が続いていきますように。

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